夢想飛行−非連続線上の飛躍
保守思想は、国家主義と自由主義の圧力から伝統的価値観を墨守する中道である。仏教、神道に立脚した脱近代を志向する時期がきている。個人益ブログ、メモ帳です。
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「福沢諭吉を崇拝する考えの危険性」について
らんきーブログさんのTBで面白いエントリーを見つけました。以下、抜粋(青字)します。
津久井進の弁護士ノート
福沢諭吉を崇拝する考えの危険性
1 誰でも知っている「学問のすすめ」は、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」から始まっていて、西洋的な平等主義が主張されているように誤解されています。
これは、確かに自然権的な平等権を指摘しているともいえますが、その後に続く文章を見ると、むしろ、競争至上主義、自己責任論、選民思想(弱者切捨て思想)にあふれています。
◆今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるものあり、貴人もあり、下人もあり
◆賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由って出来るもの
◆むつかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という
◆医学、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、多の奉公人を召使う大百姓などは、身分重くして貴き者というべし。
◆無学なる者は貧人となり下人となるなり。 近代主義の初めは、「差異主義」が残っていた。本来、自由とは差異主義である。つまり、ルネッサンスのような差異活性化、江戸時代のような自由=差異主義である。この考えに基づくと、その差異を生かす事(個性尊重)に意義を見出せる。
福沢諭吉の場合は、「・・・大なる商売をする町人、多の奉公人を召使う大百姓などは、身分重くして貴き者というべし」という部分である。つまり、拝金主義である。江戸時代まで存在していた日本の倫理観、お金よりも倫理を尊ぶ思想を破壊しているのである。現代日本の病巣の発端である。格差社会とは、人がお金を貪欲に欲するから存在する。お金よりも道徳・倫理を尊ぶ世界であるなら、同じ格差でも異なった認識を示すであろう。
参照:平等思想の弊害について2007年04月19日(Thu)
過去のエントリーでも書いたと思うが、近代主義特有の物質が精神を支配し始めたのである。
2 福沢諭吉が、富国強兵、植民地主義(帝国主義)の最右翼の論者であったことは、よく知られています。
私の手元にある日本史の教科書には、福沢諭吉の「脱亜論」(中国、朝鮮に対する侵略政策)が、しっかり資料として出ています。
以下は福沢諭吉の主宰する「時事新報」の抜粋です。
◆世界各国の相対峙するは禽獣相食まんとするの勢にして、食むものは文明の国人にして食まるるものは不文の国とあれば、我日本国は其食む者の列に加はりて文明国人と共に良餌を求めんか
(≒世界は弱肉強食の世の中だ。食べる側は文明国。食べられる側は後進国。日本は食べる側に加わって、世界列強とともに良い餌を食べよう)
◆西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分すべきのみ。
(≒西洋文明国と一緒になろう。中国や朝鮮に対しても、隣国の礼を尽くす必要はなく、西洋列国と同じように処分すればよい)
◆悪友を親しむ者は共に悪名を免かるべからず。我れは心において亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。
いやはや、すごいことを言っていますね。
この部分に関しては、拙ブログのエントリーで同じ様な批判をした。以下参照。
保守のマゾ史観 2007年04月06日(Fri)
・・・『 「脱亜論」はアジアとの連携を否定する、と同時に、アジア的価値観をも否定している。「福翁自伝」での霊性の否定、即、神の否定である。東洋では、西洋的神の存在は紀元前4世紀に荘思によって否定されている、つまり、東洋の神は自己に内在し、西洋の神は外界に存在するものである。福沢諭吉は、東洋を否定した西洋化の薦めであり、「力即正義」「外界の神」の薦めにつながるものである。その結果が、日韓併合であり戦争への道である。』・・・
津久井弁護士の意見とほぼ同じであると思われる。
3 そして、靖国問題です。
靖国神社を利用して、愛国心の高揚や、国のために死ねる国民を作り出そうというシステムを最初に提唱したのは、福沢諭吉でした。
これもやはり時事新報の中に「戦死者の大祭典を挙行す可し」(1895年)というのがあり、これを受けて、戦前の靖国システムが構築されたということです。
◆戦争に備えて死を恐れずに戦う兵士の精神を養うために、可能な限りの栄光を戦死者とその遺族に与えて「戦場に斃るるの幸福なるを感ぜしめざる可らず」(≒戦死することが幸福であると感じさせるようにしなければならない)
◆そのための方策として、「帝国の首都東京に全国戦死者の遺族を招待して、明治天皇自らが祭主となって死者の功績を褒め讃え、その魂を顕彰する勅語を下すこと」こそが、戦死者とその遺族に最大の栄誉を与え、戦死することを幸福と感じさせることになる
詳しくは高橋哲哉さんの「靖国問題」の第1章を
高橋哲哉さんの「靖国問題」を読んでいないのですが、この部分に関しては、若干、異なる。明治初期に徴兵制が導入された。しかし、多くの国民(主に農民)にとって、弱肉強食の帝国主義、そういう国際情勢に無頓着であった。また、江戸時代までは、国家とは藩であり、日本とは天下(=世界)であった。国民国家の意識が生まれたのは日清戦争である。
それまでは、何故に、働き手を軍隊にとられるのか、それが理解されていなかった。また、戦争となれば、文字通りの血税である。国民の反発は強く、その感情を和らげる為に各種宣伝が行なわれた。例えば、国家の為に兵士になったものには名誉と金銭(恩給:金鵄勲章につく)その一つが、「軍隊は国民の学校」という言葉である。次に、戦死者の名誉に関しては、「病死をすれば身内の葬儀であるが、戦死者は村をあげての葬儀となり、国民全体で弔う、故に、名誉である」という考え方です。この考え方を、国民に普及させたのは明治の軍隊、徴兵解説書である。
その方法は、徴兵生活を不安に思う心理につけこみ、軍隊生活マニュアル(徴兵制の解説書)を介してのすり込みです。しかも、ベストセラー!その中に、式辞・弔辞マニュアルまでありました。それを介して国家の思想を浸透させたのです。勿論、著者は軍人個人であり、軍隊とは関係ない事になっているが、階級等を考えれば軍隊の代弁者である。その本の中に、「私的制裁には黙って耐えよ、一年だけだ」という趣旨等まで含まれていた。
国民国家に必須の国民皆兵の軍隊、その創設に必要であったにすぎない。帝国主義故にあった考えであろう。これに関して、福沢諭吉が早いのか、軍が早いのか、それは分からない。
また、当時の国際情勢を考えれば、西洋列強の植民地支配、奴隷貿易、それらを見て明治維新に至っている。つまり、明治維新の精神である「(弱国である)アジアと共に歩む」の否定したのが福沢諭吉である。また弱肉強食を否定(東洋王道:右翼源流)しつつ、その弱肉強食の世界(西洋覇道)に生きる、常に、ジレンマが近代日本にはあった。中野正剛の亡国の山河では、アジア人同胞の惨状を憂い、悲しむ、そして、「弱い事が罪である」という話になる。日本の右翼源流の人は、民権重視であり、その民権を守るには国権強化しかない、そういうものである。つまり、民権=国権の時代の思想である。大東亜戦後、陸軍の国庫略奪の暴挙を知った右翼徳富蘇峰翁が、皇軍を侮蔑しがら、国民に返すべき金である、と主張したことでも、本来、右翼の原点にあるのは「民権」であると理解できよう。
津久井弁護士は「福沢諭吉を崇拝をしている為政者は、戦前の富国強兵・競争主義・列強帝国政策を理想(願望)とし、これを踏襲したい」と仰られている。ある意味、同感であり、それと同時に、その為政者は時代錯誤である。つまり、武力絶対の時代から知の時代に移った。また、民権=国権の時代から民権と国権の二項対立の時代、そして今や、「民権と国権が調和する時代」を志向する。
但し、名著には、普遍的真理が含意に有り、その真理は崇高であり、永久に輝き続けるであろう。この意味は、左右を問わない、マルクス主義−(日本の左派は、軍事共産主義のレーニン主義である。メシアニズムである。−)が輝いているのと同じである。しかし、近代主義の真実とは鏡像である。

津久井進の弁護士ノート
福沢諭吉を崇拝する考えの危険性
1 誰でも知っている「学問のすすめ」は、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」から始まっていて、西洋的な平等主義が主張されているように誤解されています。
これは、確かに自然権的な平等権を指摘しているともいえますが、その後に続く文章を見ると、むしろ、競争至上主義、自己責任論、選民思想(弱者切捨て思想)にあふれています。
◆今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるものあり、貴人もあり、下人もあり
◆賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由って出来るもの
◆むつかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という
◆医学、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、多の奉公人を召使う大百姓などは、身分重くして貴き者というべし。
◆無学なる者は貧人となり下人となるなり。 近代主義の初めは、「差異主義」が残っていた。本来、自由とは差異主義である。つまり、ルネッサンスのような差異活性化、江戸時代のような自由=差異主義である。この考えに基づくと、その差異を生かす事(個性尊重)に意義を見出せる。
福沢諭吉の場合は、「・・・大なる商売をする町人、多の奉公人を召使う大百姓などは、身分重くして貴き者というべし」という部分である。つまり、拝金主義である。江戸時代まで存在していた日本の倫理観、お金よりも倫理を尊ぶ思想を破壊しているのである。現代日本の病巣の発端である。格差社会とは、人がお金を貪欲に欲するから存在する。お金よりも道徳・倫理を尊ぶ世界であるなら、同じ格差でも異なった認識を示すであろう。
参照:平等思想の弊害について2007年04月19日(Thu)
過去のエントリーでも書いたと思うが、近代主義特有の物質が精神を支配し始めたのである。
2 福沢諭吉が、富国強兵、植民地主義(帝国主義)の最右翼の論者であったことは、よく知られています。
私の手元にある日本史の教科書には、福沢諭吉の「脱亜論」(中国、朝鮮に対する侵略政策)が、しっかり資料として出ています。
以下は福沢諭吉の主宰する「時事新報」の抜粋です。
◆世界各国の相対峙するは禽獣相食まんとするの勢にして、食むものは文明の国人にして食まるるものは不文の国とあれば、我日本国は其食む者の列に加はりて文明国人と共に良餌を求めんか
(≒世界は弱肉強食の世の中だ。食べる側は文明国。食べられる側は後進国。日本は食べる側に加わって、世界列強とともに良い餌を食べよう)
◆西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分すべきのみ。
(≒西洋文明国と一緒になろう。中国や朝鮮に対しても、隣国の礼を尽くす必要はなく、西洋列国と同じように処分すればよい)
◆悪友を親しむ者は共に悪名を免かるべからず。我れは心において亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。
いやはや、すごいことを言っていますね。
この部分に関しては、拙ブログのエントリーで同じ様な批判をした。以下参照。
保守のマゾ史観 2007年04月06日(Fri)
・・・『 「脱亜論」はアジアとの連携を否定する、と同時に、アジア的価値観をも否定している。「福翁自伝」での霊性の否定、即、神の否定である。東洋では、西洋的神の存在は紀元前4世紀に荘思によって否定されている、つまり、東洋の神は自己に内在し、西洋の神は外界に存在するものである。福沢諭吉は、東洋を否定した西洋化の薦めであり、「力即正義」「外界の神」の薦めにつながるものである。その結果が、日韓併合であり戦争への道である。』・・・
津久井弁護士の意見とほぼ同じであると思われる。
3 そして、靖国問題です。
靖国神社を利用して、愛国心の高揚や、国のために死ねる国民を作り出そうというシステムを最初に提唱したのは、福沢諭吉でした。
これもやはり時事新報の中に「戦死者の大祭典を挙行す可し」(1895年)というのがあり、これを受けて、戦前の靖国システムが構築されたということです。
◆戦争に備えて死を恐れずに戦う兵士の精神を養うために、可能な限りの栄光を戦死者とその遺族に与えて「戦場に斃るるの幸福なるを感ぜしめざる可らず」(≒戦死することが幸福であると感じさせるようにしなければならない)
◆そのための方策として、「帝国の首都東京に全国戦死者の遺族を招待して、明治天皇自らが祭主となって死者の功績を褒め讃え、その魂を顕彰する勅語を下すこと」こそが、戦死者とその遺族に最大の栄誉を与え、戦死することを幸福と感じさせることになる
詳しくは高橋哲哉さんの「靖国問題」の第1章を
高橋哲哉さんの「靖国問題」を読んでいないのですが、この部分に関しては、若干、異なる。明治初期に徴兵制が導入された。しかし、多くの国民(主に農民)にとって、弱肉強食の帝国主義、そういう国際情勢に無頓着であった。また、江戸時代までは、国家とは藩であり、日本とは天下(=世界)であった。国民国家の意識が生まれたのは日清戦争である。
それまでは、何故に、働き手を軍隊にとられるのか、それが理解されていなかった。また、戦争となれば、文字通りの血税である。国民の反発は強く、その感情を和らげる為に各種宣伝が行なわれた。例えば、国家の為に兵士になったものには名誉と金銭(恩給:金鵄勲章につく)その一つが、「軍隊は国民の学校」という言葉である。次に、戦死者の名誉に関しては、「病死をすれば身内の葬儀であるが、戦死者は村をあげての葬儀となり、国民全体で弔う、故に、名誉である」という考え方です。この考え方を、国民に普及させたのは明治の軍隊、徴兵解説書である。
その方法は、徴兵生活を不安に思う心理につけこみ、軍隊生活マニュアル(徴兵制の解説書)を介してのすり込みです。しかも、ベストセラー!その中に、式辞・弔辞マニュアルまでありました。それを介して国家の思想を浸透させたのです。勿論、著者は軍人個人であり、軍隊とは関係ない事になっているが、階級等を考えれば軍隊の代弁者である。その本の中に、「私的制裁には黙って耐えよ、一年だけだ」という趣旨等まで含まれていた。
国民国家に必須の国民皆兵の軍隊、その創設に必要であったにすぎない。帝国主義故にあった考えであろう。これに関して、福沢諭吉が早いのか、軍が早いのか、それは分からない。
また、当時の国際情勢を考えれば、西洋列強の植民地支配、奴隷貿易、それらを見て明治維新に至っている。つまり、明治維新の精神である「(弱国である)アジアと共に歩む」の否定したのが福沢諭吉である。また弱肉強食を否定(東洋王道:右翼源流)しつつ、その弱肉強食の世界(西洋覇道)に生きる、常に、ジレンマが近代日本にはあった。中野正剛の亡国の山河では、アジア人同胞の惨状を憂い、悲しむ、そして、「弱い事が罪である」という話になる。日本の右翼源流の人は、民権重視であり、その民権を守るには国権強化しかない、そういうものである。つまり、民権=国権の時代の思想である。大東亜戦後、陸軍の国庫略奪の暴挙を知った右翼徳富蘇峰翁が、皇軍を侮蔑しがら、国民に返すべき金である、と主張したことでも、本来、右翼の原点にあるのは「民権」であると理解できよう。
津久井弁護士は「福沢諭吉を崇拝をしている為政者は、戦前の富国強兵・競争主義・列強帝国政策を理想(願望)とし、これを踏襲したい」と仰られている。ある意味、同感であり、それと同時に、その為政者は時代錯誤である。つまり、武力絶対の時代から知の時代に移った。また、民権=国権の時代から民権と国権の二項対立の時代、そして今や、「民権と国権が調和する時代」を志向する。
但し、名著には、普遍的真理が含意に有り、その真理は崇高であり、永久に輝き続けるであろう。この意味は、左右を問わない、マルクス主義−(日本の左派は、軍事共産主義のレーニン主義である。メシアニズムである。−)が輝いているのと同じである。しかし、近代主義の真実とは鏡像である。

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コメント
なるほど!
なるほど、おもしろい。
福沢諭吉は良いこと語りのようで、実は腹黒い思想の持ち主だったのかと勉強になりました。
日本国の「顔」「象徴」である一万円札紙幣の表が彼になっているのは彼の持つ理想を実現することを内外に知らしめる為だったかと納得しました。それで福沢諭吉が紙幣として登場してから日本人の行動が変になってきたのも、倫理道徳観が崩壊しているのも納得です。
陳腐な悪霊が考えた国家思想が日本国の目指さなければならない理想とは到底思えないです。
あ〜、聖徳太子の紙幣が懐かしい、あの頃は今のように世間は騒がしくなかった。
紙幣は日本の「顔」だと思います。もう少し良い人選出来たと思うけど、誰が彼を「顔」にしたのだろうか?
福沢諭吉は良いこと語りのようで、実は腹黒い思想の持ち主だったのかと勉強になりました。
日本国の「顔」「象徴」である一万円札紙幣の表が彼になっているのは彼の持つ理想を実現することを内外に知らしめる為だったかと納得しました。それで福沢諭吉が紙幣として登場してから日本人の行動が変になってきたのも、倫理道徳観が崩壊しているのも納得です。
陳腐な悪霊が考えた国家思想が日本国の目指さなければならない理想とは到底思えないです。
あ〜、聖徳太子の紙幣が懐かしい、あの頃は今のように世間は騒がしくなかった。
紙幣は日本の「顔」だと思います。もう少し良い人選出来たと思うけど、誰が彼を「顔」にしたのだろうか?
>たけとき様
はじめまして。
「崇拝」は、津久井弁護士の言葉です、ね。
そのまま引用しています。
そういう事よりも、引用をする人とは、
過去の偉人の権威を利用しようとしている人、
自身と同一化したい人であろう。
そういう意味では、「尊敬や崇敬」は冒涜の裏返し。
>ゲッターロボ様
紙幣は、一層の事、文化的建造物にでもしたほうがいい?
金閣寺とか、法隆寺とか、東照宮とか、ね。
人物なら長所短所があるから、とかく、議論になる。
はじめまして。
「崇拝」は、津久井弁護士の言葉です、ね。
そのまま引用しています。
そういう事よりも、引用をする人とは、
過去の偉人の権威を利用しようとしている人、
自身と同一化したい人であろう。
そういう意味では、「尊敬や崇敬」は冒涜の裏返し。
>ゲッターロボ様
紙幣は、一層の事、文化的建造物にでもしたほうがいい?
金閣寺とか、法隆寺とか、東照宮とか、ね。
人物なら長所短所があるから、とかく、議論になる。
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崇拝って?考えすぎなんじゃないですか。
「尊敬」と言ったほうが正確化と。
歴史上の人物を宗教関連の偉人を別にして、崇拝している人はいないと思いますよ。
私としては、何の疑いも無く軍艦などに政治家や軍人、将軍の名前を付けている国々の人たちのほうが危険性があると思いますけどね。