中世から脱近代志向までを考える

 近世欧州は、「宗教改革(神を主にした立場、マイノリテー宗教保護、宗教)」「ルネッサンス(人間性・精神を主にした立場、差異主義、人文)」「自然科学(世界を主にした立場、宇宙、科学)」の成立によって、中世から脱却したと思われる。

 中世欧州に於いては、この三要素は、キリスト教の価値観において調和的共存がなされていた。つまり、近世以降は、この3つの要素を統合する基本的価値観である宗教の喪失「神の死」、それに代わって「自由」の概念が基盤になったのである。

 歴史を少し遡ると、ギリシャ哲学の時代は「自然との調和」という外面性・他者肯定性が強くあった。中世になると、ギリシア的外面性を否定する内面性の確立、その内面性による外面性の支配、そして中世型自己否定に至る。  十字軍を考えると分かる。権力の中心が、神聖ローマ皇帝からローマ法王に移行さた。そして、ローマ法王の現世支配、現世の無価値を謳い(世俗解脱志向、中世日本の仏教と似ているのである)、この世の価値は「神」の居る教会である。それによって、「教会」は、現世の権威であり、権力者である、故に、支配者たるべきである、という思想である。それが、世界否定による世界支配への論理である。

 中世から栄えている欧州の都市を観光すれば分かるが、何れの都市でも、都市の中心に「教会」がある。そこに、教会を中心にした共同体の存在を感じることが出来るであろう。日本で言えば、何処の村・町にも神社(先祖崇拝)があった。その神社を中心にし、寄り合い、教育、相談等が行われていた、それと似たものであろう。

 近世社会は、冒頭の三つが独立した形でばらばらに共存していた時代である。そこにキリスト教的価値観は残っていた。

 しかし、英国に始まる産業革命によって、近代化が始まる。つまり、近代化とは、「宗教改革(神)」「ルネッサンス(人間中心主義)」「自然科学(世界主義)」の三つに、「機械主義」が加わったものである。否、機械主義は、人間中心主義の結果として、(近代)合理主義を経て生まれたものであろう。

 別の問題になるのが、宗教革命は本質的に「神中心主義」がある、その「神中心主義」を護持するべく「マイノリティー宗教保護」の概念がある。つまり、それが「政教分離」である。近代主義における「神の死」とは、国家が神から解放される事である。その帰結として個人も神から解放され、それが、倫理の崩壊を招く。換言するならば、社会の調和が乱れたのである。

参照:近代日本と神の衰退−倫理崩壊2007年03月27日(Tue)

 そして、人間中心主義とは、「差異主義」である。この「差異尊重」「差異共存」こそがルネッサンスの本質である。しかし、フランス革命に始まる西洋啓蒙思想の「平等」の概念、これが同一化と排除を生み、言うまでも無く「差異排除」を志向させたのである。つまり、平等と差別は、矛盾するが同一である。
 
参照:平等思想の弊害について2007年04月19日(Thu)

 本来的に、自由主義とは、差異主義であり、「個人主義」や「利己主義」とは異なる物である。

 キリスト教的人間中心主義では、万物は神が人間の為に創造された、という一面がある。神の超越性が否定されれば、魔術・呪術的な神秘性は、自然科学にとって代わられる。自然科学の根底にあるのは、自然を機械的に看做すこと、自然を数学的表記によって科学する事である。故に、「人間機械論」も誕生するのである。つまり、人間が自然支配を目論見て、機械を作り、機械によって支配すると同時に、人間は機械となり、必然的に人間は「機械的」自然の一部となったのである。

 その情景を風刺した映画こそが、チャップリンの映画「モダン・タイムズ」であろう。近代文明の進歩は、人間中心主義を破壊し、人間を機械化し、人間の主体性を否定する、自己否定したのである。

参照:近代主義の狂気2007年03月20日(Tue)

 これと同じ概念が、資本主義にも該当する。資本主義を為している要員は、人間が「お金」を欲する事である。しかし、人間はお金に支配されるようになる。それが、快楽主義である。快楽主義とは、お金によって物質を得る事で快楽を得る、それを幸せと考えるものであろう。つまり、快楽主義とは、物質によって精神を支配するのである。無意識下に快楽主義に浸透されている日本人。現代日本人の支配層は、物質に支配され主体性を喪失した奴隷である、そして被支配層は奴隷に飼われる家畜である。

 また、産業革命による人工の都市部集中によって、ハンナアーレントによる見放された層の全体主義化が生まれる。そして、心の癒しとしての「メシアニズム」としての「レーニン崇拝」「天皇崇拝」が起きる。支配者が、水平方向の動きを抑制するのに利用したのが、マキャベリズム型の垂直方向の「愛国心」である。これが、幻想共同体である。

参照:ポストバブル世代の全体主義思想2007年05月03日(Thu)

 この時代の唯物論、唯物史観、唯物科学から誕生したのがマルクス主義である。初期マルクス主義は、人間中心主義である。日本のサヨクが流布したのは後期マルクス主義であり、しかも、その多くはレーニン流解釈によるスターリン・レーニン主義(戦時共産主義・官僚集団による統治)である。マルクスのスピノザノートは有名である。スピノザは無神論と言われるが、それは西洋的神の概念に対する無神論である、「自然即神」の概念は、東洋自然の法則の神の概念であり、神道に近いものがある。東洋では、西洋的神は、老荘によって否定されている、つまり、キリスト誕生以前である。そして、マルクス主義は、「二項対立論」である。

 ここに近代主義の「個人主義 対 世界主義」、更には「国家主義」による鋭い対立が起きるのである。冒頭に述べた、三つの要素を調和していた「神」を否定した事によって生まれた対立である。戦争の世紀である。

 近代主義とは、換言すれば、個人主義・自由主義の時代ではなく、大衆主義(全体主義)や非人間主義(物質至上主義)の時代である。

 そして、ソ連崩壊によってレーニン主義とスターリン主義の終焉を迎えた。柄谷行人氏等がマルクス・レーニン主義の終焉と仰られるが、実際は、レーニン主義とスターリン主義である。彼等の多くは、後期マルクス主義のみによって、マルクス主義を語っているのであろう。

 ここで、構造主義(構造改革がこれに該当するが、小泉改革は似非構造改革である)による多極化の時代が誕生する。そして、脱近代志向としての「ポストモダン」である。ポストモダンとは、民主主義と科学技術の発達による一つの帰結、近代主義の最終到達点である。しかし、ポストモダンは、「量的回帰」と「相対主義」からの脱却が成されず、近代主義の延長線上に有り、脱近代に失敗したのである。日本に於いては、唯物史観を批判するべきポストモダンが、唯物史観によって解釈されるという致命的ミスにより、世界と比較して知的遅れを招いた。

 ポストモダンでは、普遍的真理探究による幸福というものが一つある。つまり、霊性の現象化である「美」の概念であろう。安倍政権の「美しい国」とは、それを意識したものであるかは知らないが、「美や真理」とは、語れば語るほど、乖離する厄介なものである。自然にあるものが「美や真理」なのである。

 そして、ここにきて、世界はポストモダンから脱近代(近代の超越)を志向している。脱近代は、ポストモダンで超越できなかった近代主義の遺物である「量的回帰」及び「相対主義」の超越を志向しているのである。そして、冒頭の三要素を調和して平和な社会「調和」、人間中心主義社会「精神が物質を支配する(精神の物質に対する絶対優位)」を構築するのに必要な倫理である。つまり、「神」の復活である。この神は、擬似宗教、メシアニズムではなく、「真理」の世界である。その流れが、中国他アジア諸国における儒教回帰であり、ロシアでのエリツイン氏国葬でのギリシア正教による葬儀である。

参照:新しい保守の志向2007年04月18日(Wed)
参照:ロシア正教によるエリツィン国葬−ロシア唯物論の終焉2007年04月27日(Fri)

 この流れで考えると、日本のサヨクに未来は無い、彼等は神を冒涜し、陵辱したからである。彼等に、真の神の復活が可能であるか、復活した時に彼等は過去とどのように向き合うのか。そして、彼等の平等は差別である。

 人間中心主義社会、差異尊重の社会に於いては、小さな政府(国家の夜警国家化)は必然であり、地方分権の促進によるきめ細かな行政サービスになる。世界的におきている官のスリム化とはこの流れである。日本の場合は財政問題がこれに重なり急務である。

 つまり、今、世界で起きているのは、数世紀に一度起きる変化の時期である。中世から近世へ、近世から近代へ、近代から脱近代へ、そういう時代である。その中で、価値観は大きく変わる、「平等は差別であり、差別は平等である」「右は左であり、左は右である」「是は非であり、非は是である」「自由は不自由で有り、不自由は自由である」ということだ。そういう時代、故に、有識者は、必死に、大衆啓蒙をしたのであるが、伝わらなかったようである。

 がしかし、この時代の先駆者であるはずの日本は、期は逸したように思われる。何故、先駆者であるのか、それは、東洋王道思想、東洋自然法則は、冒頭の三要素を調和する倫理観だからである。その概念による議論が戦前に行われていた。それが、「新東亜秩序」であり、「アジア主義」である。西洋文明は、「実在(有)」と「理性」の哲学によって支えられている科学であろう。東洋文明は「無」の哲学によって支えられている宗教であろう。そして、戦前の文化人は近代化によって苦悩しつつ、近代文明である「機械主義」が浸透し、日本文明の一部である、と明確に認識していた。決して、単純に、排除しようとしていたのではない。

参照:無は非無故に無である−禅と霊性2007年03月06日(Tue)

 この時代の文化・政治・思想界に大きな影響を与えたのが西田哲学である。西田哲学は禅宗の影響を受けており、田辺氏を介して西田哲学がフッサールに講義されたほどである。また、禅宗や西田哲学は、英文著書によって欧米有識者に影響を与えた。それは、現代社会におけるカオス理論にも通じる一面もある、ように思われる。言うまでも無く、ロスアラモス研究所の申し子である物理学者によるカオス理論であり、その物理学者が現代の世界を動かす知的エリートである。彼等の知性こそが、ヘッジファンドの投資プログラムを生み、政治の世界のブリュッセルやワシントンの知性である。その物理学者達にさえ、アインシュタイン以降、その申し子達も禅宗に関心を寄せたのである。

 しかし、知的集積が不十分(グローバリズムも250年に及ぶ知的集積がある)であったり、一部に体制追従の思想が有り、時の政権に利用された事が重なって、戦後サヨクアカデミズムによって葬り去られたものである。脱近代志向とは、世界共通である。本来の意味では、アジアの復活とか、西洋の没落は意味しない。可能性として、アジアの時代があった、という意味である。しかし、日本のアジア外交破綻によるアジア共同体の遅れ、失敗によって期は逸した。

参照:欧米の対立とアジア時代の終焉2007年04月29日(Sun)

 米国の時代の終焉とも言われているが、本当であろうか?所謂、軍事力による植民地主義は終焉したであろう。しかし、インターネットとは米国国防総省の技術であり、考えようによっては、インターネット上は米国なのである。そして、WEB2.0をリードするグーグル・ユーチューブ連合やアマゾン(ロングテールの代表的企業)も米国企業である。つまり、高度情報化社会自体が米国なのではないか、ということである。要するに、時代の変遷によって、「覇権」の型が変化しただけではないのか、という疑問である。

参照:新時代の「知」について 2007年02月27日(Tue
参照:世界コンピュータ将棋選手権−情報社会の知2007年05月08日(Tue)

 大東亜戦争とは、何であったのか、それを問う時に「白人対東洋人」という二項対立論で考えたのは何故なのか。あの戦争では、「東洋は一つ」、東洋的価値観による秩序構築、つまり、脱近代志向の実践を誤った形式で実行し、失敗した結果が敗戦であろう。脱近代によるアジア共同体志向は、英霊達(全員とは言わない)の本意であったろう。岡倉天心の説く「愛」によるアジア主義の確立、それを基盤にした「アジア共同体」の確立によって、初めて、日本は「大東亜戦争実質勝利論」を語れたであろう。経済至上主義、つまり、大東亜戦争で駆逐しようとした物に成り果てて、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と煽てられて、嬉々としている日本人を見て、英霊は何のための戦争であったのか、と泣いたであろう。

参照:大東亜戦争論「神々の敗北」−近代主義2007年03月31日(Sat)

 今後、数世紀に及び、日本人の子孫に従属を強いる事になる可能性がある。全く、面目ないのである。死者による支配である・・・国学(折口信夫や柳田國男の民族学)や哲学(人生哲学的なもの)・宗教による情操教育を回避してきた日本の当然の帰結であろう。慈悲無き愛の無残さである。


コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

らんきーなベンチから 

人気ブログランキング  ※より多くの人に伝えるために協力を♪ 参院選終了までブログ記事上部に投票ボタンを設置中!ヨロシクお願いします。らんきーなベンチから中国から流れてくる黄砂や、光化学スモッグの街。福岡
プロフィール

四季桜

Author:四季桜
日本酒愛好家、精神的自由と豊かさな追求。創造力の豊かさに感銘する。

FC2カウンター
FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事
郵政民営化凍結 TB

カテゴリー
AD-Butterfly
月別アーカイブ
フリーエリア

最近のトラックバック
最近のコメント
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブロとも一覧

■ ブログ名:らんきーブログ