夢想飛行−非連続線上の飛躍
保守思想は、国家主義と自由主義の圧力から伝統的価値観を墨守する中道である。仏教、神道に立脚した脱近代を志向する時期がきている。個人益ブログ、メモ帳です。
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暴政に無関心な日本人
2003年4月に発生した、鹿児島県議選挙違犯事件の鹿児島地裁の判決「自白否定12人無罪判決」(参照 鹿児島選挙違反の捜査、再調査必要と国家公安委員長 )を聞いてぞっとした。これは、近年、日本に見られる、政治権力側の大暴走、傲慢さの一断面である。鹿児島地裁の判決では、「警察の自白調書は強圧的で信用できない」と検察側の主張否定し、捜査手法の違法性についても指摘しています。
これは、昨今話題になっている、痴漢冤罪事件(参照 映画「それでもボクはやってない」)であったり、国策逮捕疑惑の佐藤優氏(参照 機能不全外務省と司法の不当干渉)や植草氏の逮捕と同根の問題(参照 植草教授冤罪説が再度沸き起こる)でもある。話を大きくすれば、ブッシュ米国政府が証拠を捏造し、自称世界の警察として、イラク戦争を開始した狂気性の問題、と看做せる。しかし、このブッシュ政権の蛮行を積極的に支持し、作戦に関与した小泉前首相に対する責任追及さえ行われていない。安倍政権の閣僚である久間防衛大臣や麻生外務大臣に至っては、小泉前首相及び閣僚(麻生自身を含む)の責任を棚上げして米国批判をし、日本政府の責任感の欠如を国際社会に示した。イラク戦争を平和憲法(是非は無関係、現実の憲法である)下の日本が積極的に支持したことは、国際社会においては、日本が米国の属国である事を宣言したに等しい。人道的観点に立てば、安倍政権や日本国民は、「ファルージャの悲劇」をどのように思っているのか、という一言につきるであろう。 また、同胞の年間自殺者30,000超の問題、格差社会という貧困問題(ワーキングプアー問題)への無関心も不気味である。フランスのCPE法案問題(植民地支配問題の処理としての移民と移民の就労差別問題もある)と比較すると顕著である。CPE法は、解雇条件を緩和によって、法人の雇用意欲を増加させる、国家が就職や職業訓練を推進させる新雇用促進策である、と考えられています。それに対し、若年層や労組は、解雇条件の緩和を優先するので、企業による一方的な解雇が可能で、企業優先の政策である、と不信感を募らせて、反発したのであった。それを、日本メディアは、「グローバリズムの影響で不可避」「迷惑な大規模デモを仕掛けるなどはフランスの若者達の甘え」等と酷評した。この意見に同調できた日本人が多いことを危険視するべきである。何故なら、現状の格差社会や貧困問題は、フランスの若年層及び労組のように、「企業の利潤追求優先」か「労働者の権利優先」で争わなかったことに原因があるからです。
安倍政権の技術革新による経済成長戦略自体を、誤りと看做す事はできない。その成長の鍵を握るのは、労働者の質(差異の尊重による創造力)なのである。終身雇用制度があった時代では、労働者には、自発的な高い忠誠心があり、安心して創造力を発揮できたが、今では保身・自身の生活を守ると言う、政府が国民に要求する自己責任に忙しいのである。歴史的に見ても、鎌倉時代の武士の「御恩と奉公」があった。武士は主君を選べ、主君に石高等で不満があれば、暇をとった。故に、主君は武将や武士への評価及び待遇に細心の注意を払ったし、それは、ある意味、対等な契約関係であった。そして仕えていた時の業績は、随時、書状にしたたらめられており、それが職務経歴書の役割を果たし、年齢差別なく別の主君に仕える事ができた。今よりも、戦国時代の方が公平である。庶民層においても、戦国武将が城内に町人や農民を匿い、敵より守った。領海内で発生した、日本漁船に対する韓国国家権力の不当行為である玄界灘事件や北方領土周辺における銃撃事件に対しても、日本政府は、自国民を保護を怠っている。海外滞在者が、日本大使館を信用しないのは常識となってしまった。つまり、戦国武将よりも日本政府は国民を大切にしない一面が存在するのである。無条件に忠誠や愛国を誓うという性質ではなく、日本的な契約社会であった事を理解しなければならない。
労働の質が齎すイノベーション、つまり、技術革新は、多種多様の個性の中から誕生する。つまり、差異同士が触発され、共振し、多くのノイズの中から秀逸な技術革新を生み出す、本来の多神教文明に基づく日本の伝統的思想(参照 日本の伝統的思想について)の重要性が増すのである。言論の自由は勿論、精神の自由(参照 自由について−東洋と西洋)、同一性主義教育の否定(参照 教育理念問題を考える)が必要不可欠になるのです。安倍政権の教育基本法改正では、「愛する態度を養う」という個性(多種多様な愛国心)の発露でさえ画一化する意図が見られ、政策に矛盾が生じ、100年先の日本社会に不安を残すものである。
更に、昨今の日本では、柳沢厚生労働大臣の「産む機械説(参照 「子産む機械」発言の深刻な影響−問題の本質)」「子供二人は健全説(参照 柳沢厚労相「健全発言」と日本の病的問題)」「労働時間だけが売り物説」だけではなく、自民党・高知市議の島崎利幸氏の「機械のさびきった、子供の産めないおばさん連中」発言(参照 三輪のレッドアラート!無神経の極み・・・)をし、それを「悪いことを言ったとは思ってない。あと4年間、言いたい放題言わせてほしい」(言論の自由とは何を言っても良いと勘違いしている愚民の典型である)という荒廃ぶりである。つまり、安倍政権や経済団体は、労働者を唯物論的に「使い捨ての道具」として非人道的に扱い(参照 民間議員、御手洗キャノンの偽装請負で参考人招致要求)、労働者も感情を持っている人間であり、その尊厳を重んじるべきである、という基本的人権の原則を忘却しているのである。然るに、野党は当該問題でさえ追及しきれていない、この事実が良識ある国民を絶望の淵に追い込むのである(参照 安倍政権の迷走−茶番国会)。
また、一部の右派が煽った「イラク人質事件の自己責任論」でさえも、マスコミや政府までがてんやわんやしつつ同調したのである。これは、右派と左派による政治闘争の大前提があり、イラク人質事件の本質は、被害者の意図は不明(推測の域を出ていない)であるが、被害者周辺が政治利用「イラク撤退論」をしている、と看做せた事だ。これらは特殊なケースで、個々のケースとして語られるべきだが、一般論としてネットやマスコミ、政府で語られた。第一の問題点に、政府が危険だと認識し、そこに渡航禁止の法規制を設ける事は憲法違反の疑いがあった。つまり、政府の助言にすぎないのである。危険を承知してイラクに行き、そこでトラブルに巻き込まれれば結果の責任(誘拐や犯罪にあった件)と「日本政府が同胞を救出・保護する義務がある」を、明らかに混同していた。
何れにせよ、このような日本の異常性、日本の幼稚な民主主義の実態が、世界中に隈なく報道された事によって、特に、イラク人質事件のバッシングでは、「イラク戦争の当事者」であるアメリカ政府関係者や欧米のメディアからさえ、日本の異常性、非人道性、非人権主義国家性を指摘、批判されました。柳沢発言(参照 ツァラトゥストラはこう言っている?:政治家の言葉と「言葉狩り」)では、公的な場で日本の女性に対する優越権が認められる、このような封建的風土の残る日本のイメージが、「イメージではなく真実である」ことを宣伝し、日本は世界中で嘲笑の的になっているのである。
つまり、GHQ総司令官マッカーサーが、民主主義の成熟度について、米国を40代、日本を12歳と表現し、民主主義の発展を期待したようだが、戦戦前戦後の時代から進歩していない、と看做せる。
そして、これらを激しく批判しない国民に付け込み、政治倫理が溶解しきった安倍政権は、「話し合うという国民の内心の自由を侵害する」共謀罪(参照 安倍が共謀罪成立に執念を燃やす理由を探る)を導入しようとしている。マスメディアや一般国民が、恐ろしいほど無関心でいられる、盲目的に政治権力を信用し、暴政の脅威に対して無防備である、つまり、平和ボケ(軍事に関する平和ボケ以外が認識されないところに「真の平和ボケ」がある)なのである。
これらに共通している病巣は何であろうか、日本人が、民主主義社会における「基本的人権」や「公共」への意識の欠如、又は無理解である。つまり、日本国憲法の政治権力への授権規範性の意義を、国民が十分に理解していない、と考えられるのである。戦後教育の問題は、封建的風土が色濃く残る日本社会で、真の民主主義に路線変更を仕切れず、戦前をひきずったまま、表層のみ且つ唯物論による近代主義の理解によって、近代主義の負の部分のみを社会に顕在化させたことにある。その典型が「平等」の概念であり、平等と言えば即「結果の平等」を想像し、その観点から保守層は批判し「機会の平等」に触れれども、「機会の平等」に基づく意見は極めて少ないのである。それは、恵まれない社会または家庭環境下に生まれた人々に対し、社会で働くために必要な知識や技能を効果的に提供し、自立を促すことである。労働環境における、正規雇用と他の雇用形態の差別等、文化的自立した生活を出来ないワーキングプアー問題がこれにリンクされる。安倍首相は、食事もとれない絶対貧困率は低い、と主張したが、「文化的な生活」は現行憲法で保障されているのである。安倍首相は、憲法の精神遵守の意思がない、まさに悪霊にとりつかれたカルトチックな政権である。
つまり、日本国憲法の授権規範性が侵害されれば、政治権力は、欲望の赴くままに暴政化、腐敗し、単なる暴力装置となり、有害そのものであり、国家滅亡路線であり、危険国家と看做され孤立化路線の確定であり、その先にあるのはいつか来た滅びの美学の道、自暴自棄、破滅希望、自爆、(日米戦必敗のレポートが政府系研究所によって提出されていた。国民は「無敵皇軍」「神州不滅」を連呼していた。)であり、結果的には、善良な国民の主権が侵害され生活が破壊されるのである。国民は、自分の事と自覚して、政治を学んでいない、知識のみは豊富になっても本当に理解は出来ていないのである。これが、無関心である。はっきり言えば、関心があるつもりになっている人も少なからず居るのです。
四季桜がベルリンの壁崩壊直後の欧州で体験したことで実感した。障害者への配慮」という点であった。欧州には、障害者のみで運営されているレストランやカフェがあり、そこに四季桜はどういう場所であると知らずに、ドイツ系スイス人女性と食事に行った。そして、不用意に「遅いね」と言ってしまったが、同伴の女性は、不快感を表に出して、メニューにある同店の説明書きを突きつけたのであった。同女性は、四季桜の障害者に対する思いやりのなさ、無配慮であると感じたのであった。しかし、そういうお店と知らなかった事、更には、日本にそういうお店がないという事、これらの話で誤解を解けたのであった。しかし、日本の社会を「残念である」と述べていた。つまり、障害者への無関心、障害者への無配慮、障害者への人権軽視、このような感覚を自己に内在していると体感(経験しないと分からない、自己の事として知らないと分からないもの)で学んだのである。故に、障害者自立支援法という欺瞞に満ちた法律には呆れてしまうのである。機会平等の概念の欠如なのである、弱者を機械平等に扱えないという発想が、実は、差別であるという意識の欠落である。弱肉強食や優勝劣敗の思想であり、これは仏教の教えにも反し、このような思想を重んじるの者の為に地獄がある。まさに、今の日本は、安倍首相とその支持者の手によって、地獄に叩き落とされようとしているのである。
匿名掲示板系の運動を眺めていると理解出来るが、行動を起こしている者は、不毛なウヨサヨ論争の発展系としての運動にもかかわらず、第三者や社会に評価を期待している側面が見受けられ、つまり、自己と距離をおいて社会の問題(社会の一員、共生しているという認識不足)として捉えている。政権側に、記者クラブ等を介して巧みにコントロールをされているメディアの情報によって、踊らされている若年層や中産層は、結論ありきのネット上のウヨサヨ重箱の墨突っつき大会が精一杯なのでしょう。しかし、自己認識不足故に、自己への過大評価や驕りになって自壊し、左派系の陰謀論、工作説とし、自己正当化に躍起となる。拉致被害者救出運動他も似た側面がある。フランスの若年層は政権は生き物であり、腐り易いものである、と認識しているからこそ、彼のデモのように、問題と一体化したリアリズムが生まれるのである。リアリズムに徹した、自己の問題と捉えられる、名誉や自己顕示欲目的ではない、お金のためでもない、行動力のある「批判勢力」を育てることが重要なのです。若しくは、更に進んで、自身で社会に貢献して解決する勢力、つまり、共同体(防犯グループもその一つ)である。この共同体の破壊を意図している政策が、共謀罪(参照 安倍が共謀罪成立に執念を燃やす理由を探る)であると考えられる。
この種の問題を抱えている日本では、政治権力の暴走が容易である。そして、民主主義が崩壊し、地上の楽園としての独裁国家、共産主義国家、全体主義国家に変質しても、国民はそれほど違和感を感じないであろう。主権者たる国民の「基本的人権」にさえ無頓着である、それでは、国家統治を自己の問題としてリアリズムで認識するのは不可能である。国民は、親方日の丸官僚制度の下で、暴政や悪政であっても、経済が安定し成長していれば満足なのである。
故に、天文学的な年金保険料積立金の不正流用問題と巨額の貸し倒れ金疑惑の顛末、巨額の機密費不正使用疑惑の顛末、石井議員の惨殺事件の顛末、ロッキード事件時の対潜哨戒機疑惑の顛末・・・数多くの政治と金(又は闇社会)の問題等の追求は、最重要部分は有耶無耶になり、忘却されてしまうのが現代の日本政治です。これは、与野党の迎合、馴れ合いであり、ある意味大勢翼賛政治とも言え、それに第三の権力から利益至上主義に傾倒した権力の番犬に成り果てた(参照 メディア腐敗−政権癒着)、と看做せるマスメディアも恐ろしいほど無関心です。
ここまで無関心である理由は、明治維新以降に日本に導入された「啓蒙思想」が、日本では表層のみを理解され全く根付いていない、中江兆民の言う「恩寵の民権」であって「快復の民権」ではないことに、一つの要因を見出せる。もう一つ、日本的要因を挙げられる。それは、奈良時代以降の伝統思想「神仏習合」から誕生した「仏式葬式」や「神道の御祓い、魔除け」等の、日常生活慣習、風土、文化に根ざしているものです。
親鸞聖人の浄土真宗の教えですが、念仏によって不安の払拭をし、安心を得た時の心の歓喜強調する。そして、極楽浄土できるという、他力本願思想の側面が見える。また、位階構造を担う社寺等を中心とする民衆の相互扶助共同体「講」の存在、つまり、神仏の前では日本人は平等という精神文化(連帯意識、仲間意識)が育まれたのです。代表的な例として、江戸時代の初期に発生した、富士山信仰を基礎とする「富士講」があるが、その教義は「一家繁盛」「病苦退散」「天下泰平」という封建時代の生活に直接結びついているものである。主権在民の民主主義社会ではないので、政治に対する「批判精神」、「監視する風土」が存在しないのも当然です。また、「御上」という言葉もありますが、「上」は「神」の語源であるという学説もあります。それを考えると、政府批判と無縁の風土、精神文化が日本人を支配している、と理解できるでしょう。明治にしても、天皇主権であり、例え、天皇の意に反していても、天皇の権威を利用されれば、如何なる、抵抗もできなかった。これは、旧陸軍内部における矛盾となり、階級を超えた別の力として作用したのである。江戸時代であっても知識層は、政治と生活の関連性に気がついていたが、保身目的又は民衆の世界とかけ離れた世界の住人であったことからか、民衆の目を政治に向けることはしなかったのです。しかし、例外的に、生活が困窮し、死活問題になると「農民一揆」が発生した、つまり、暴政に対する批判、予防的批判という習慣はないのです。
明治維新を経て、「科学的であれ」「文明開化」「欧化主義」の下で、明治政権の狂気的神仏分離、神社の統廃合に伴う「非科学的な氏子崇拝」から「科学的な皇祖神崇拝(神話に基づいた国学を科学的とした)」へと意味不明な科学論による、信仰のすり替えが行われた。それまで、相互扶助共同体の中心であった氏子制度の破壊が行われたが、このような民衆意識(講の教義)の傾向は、所謂「新興宗教」の中に残り続けました。この民衆意識による精神支配こそが、政治権力者の性善説を前提にした、現代の「親方日の丸意識(=お上)」である。これは、民主主義社会では、日本人の官への甘えの意識であり、逆に甘えていると言われている人々、つまり抗議をしている人々が権利を守るために戦っている。日本の民衆思想において、霊性的な「自由(参照 自由について−東洋と西洋)」「平等」「博愛」は、近代啓蒙思想の説く「自由」「平等」「博愛」とは完全に異質です。
日本の民衆思想である「相互扶助による弱者への労わり(慈悲)」「癒し」「平等観」は、明治維新を発端にして崩壊が進み、グローバリズムと市場原理至上主義という政治、社会環境の中で、小泉劇場が幕を開け、「自民党を壊す」のスローガンの下に、自民党の地方組織と保守共同体だけではなく、日本そのものを壊してしまったのです。まさに、サッチャー元英首相の「社会などというものは存在しない」の破壊的、反保守的論理になっているのです。そして、そこに残ったのは、経済至上主義や物質至上主義という利益追求をする近代利己主義の意識のみが残ったのです。それが、時代の寵児と持て囃されたホリエモンであろう。
そして、現代の知識人やマスコミ人の多くは、江戸時代以前の知識人同様に、庶民とはかけ離れた世界に住み、下界に住む一般国民を見下しているのです。故に、彼らにとっての一般国民の存在は、「産む機械」であったり、単なる「使い捨ての道具」としての労働力でしかないのです。
ここまで見てくると、今の日本の精神的病巣の元凶が見えてくると思います。つまり、日本人の精神基盤にあるのは「封建社会の精神文化」であるが、明治以降の近代化によって「良き部分」が破壊されている。残骸としての閉鎖的「馴れ合い」(身内贔屓、安倍政権内でも露骨、官僚や企業でもある)は残っている。それに代わって、導入された近代啓蒙思想の精神は表層のみの理解で、自己の事として会得出来ておらず、実践できていない。つまり、日本国民は、明治以降の欧化主義、西洋主義で日本人としての精神文化を喪失し(潜在意識には残っている)、近代啓蒙思想も得ていない無思想な状態(参照 戦後保守思想(政治家)を考える)にあり(幕末で欧米人が予想していた)、それが欧米諸国を襲った近代主義の狂気に輪をかけて悪化させているのである。夏目漱石の文明論で予言したように、亡国の方向へ進んでいる。次に、明治維新を期にして多神教文明から一神教文明への人為的移行に伴った弊害、明治人の視野が狭かったのである。その要因は、批判を恐れずに、主観で述べるならば、本居宣長等の国学の問題点に突き当たり、漢学に批判的な立場であるべき国学が、漢学の二項論によって解釈されているという矛盾があるのではないか、という疑問に四季桜は辿りついている。
何をするべきか、先ずは、歴史の検証である。民主主義の本質を理解するには、「フランス革命の意義」を当時の時代背景や思想、哲学を含め幅広く自己の問題として検証することである。政教分離ならルターの「宗教革命の意義」を知るべきである。この世にはあ、過去と未来しか存在せず、過去の積み重ねが歴史であり、歴史にこそ英知が詰まっている、そこからしか人間は学べないのである。それは、ミルの自由論を和訳した「自由之理」の精神をそれだけで理解するのは困難であり、それが明治の自由民権(民権即国権)運動の軽薄さである。「自由之理」という書籍の背景には、観念の不連続性が、メディアによって現象界で連続して起きた歴史の積み重ねの産物であり、これらの背景を理解することなくして、「自由之理」を理解する事は不可能なのである。歴史検証の浅さ(当時としては限界かもしれないが、夏目漱石は認識していた)が問題にある。
ネットで跋扈する、日本の結論ありきの右派自慰史観や左派自虐史観に如何なる意義も見出せず、ある種のネット議論ゲーム(ディベート大会)を楽しんでいるにすぎない、つまり、不毛なのです。歴史を直視する事によってのみ、日本の危機的・末期的現状の認識や日本の真の文化を知る事が出来る。その時、自己がどれだけ日本の文化、風土に影響を受けているか認識でき、それが自己教育、自己認識につながるのである。
本来、日本は自然共生の八百万の神々の国である。伝統的に渡来人による「多民族」「多文化」「多神教」国(参照 日本文化の源流を考える)である。明治の先人が開拓した国民国家の枠組みが、日本民族の卓越した器量や寛容な精神にとって、視野狭窄であり、狭過ぎた可能性を考慮するべきである。自然共生の精神、伝統的東洋の価値観によるアジア主義、イデアとしてのみ存在したアジア主義の具現化、大東亜共栄圏の失敗の真の理由(資源、ロジスティック、技術、物量、システム工学等と言う表層ではない)の探求こそが必要ではないだろうか。


▼【CPE法案】初期雇用契約。フランスで、26歳未満の者を雇用するにあたって、2年未満ならば理由を明示することなく自由に解雇することができるという制度。いわば、新卒採用のフランス人の大半を非正規雇用者化する法案である。2006年3月半ばから、フランス国内では多くの大学、高校が学生達によって占拠、閉鎖、さらに公共交通機関や私企業を含めた300万人規模のストライキが起きた。
▼鹿児島選挙違反の捜査、再調査必要と国家公安委員長
鹿児島県議選を巡る選挙違反事件で、強圧的な取り調べがあったなどとして、12人の被告全員が無罪となった鹿児島地裁判決を受け、溝手国家公安委員長は27日の閣議後記者会見で、当時の捜査について「もう一度調査し、整理しなければいけないと思う」と述べた。
また、当時の捜査幹部の処分については「我々としては具体的に指導はできないが、適正に対処するように伝えないといけない」と話した。
(2007年2月27日14時14分 読売新聞)
これは、昨今話題になっている、痴漢冤罪事件(参照 映画「それでもボクはやってない」)であったり、国策逮捕疑惑の佐藤優氏(参照 機能不全外務省と司法の不当干渉)や植草氏の逮捕と同根の問題(参照 植草教授冤罪説が再度沸き起こる)でもある。話を大きくすれば、ブッシュ米国政府が証拠を捏造し、自称世界の警察として、イラク戦争を開始した狂気性の問題、と看做せる。しかし、このブッシュ政権の蛮行を積極的に支持し、作戦に関与した小泉前首相に対する責任追及さえ行われていない。安倍政権の閣僚である久間防衛大臣や麻生外務大臣に至っては、小泉前首相及び閣僚(麻生自身を含む)の責任を棚上げして米国批判をし、日本政府の責任感の欠如を国際社会に示した。イラク戦争を平和憲法(是非は無関係、現実の憲法である)下の日本が積極的に支持したことは、国際社会においては、日本が米国の属国である事を宣言したに等しい。人道的観点に立てば、安倍政権や日本国民は、「ファルージャの悲劇」をどのように思っているのか、という一言につきるであろう。 また、同胞の年間自殺者30,000超の問題、格差社会という貧困問題(ワーキングプアー問題)への無関心も不気味である。フランスのCPE法案問題(植民地支配問題の処理としての移民と移民の就労差別問題もある)と比較すると顕著である。CPE法は、解雇条件を緩和によって、法人の雇用意欲を増加させる、国家が就職や職業訓練を推進させる新雇用促進策である、と考えられています。それに対し、若年層や労組は、解雇条件の緩和を優先するので、企業による一方的な解雇が可能で、企業優先の政策である、と不信感を募らせて、反発したのであった。それを、日本メディアは、「グローバリズムの影響で不可避」「迷惑な大規模デモを仕掛けるなどはフランスの若者達の甘え」等と酷評した。この意見に同調できた日本人が多いことを危険視するべきである。何故なら、現状の格差社会や貧困問題は、フランスの若年層及び労組のように、「企業の利潤追求優先」か「労働者の権利優先」で争わなかったことに原因があるからです。
安倍政権の技術革新による経済成長戦略自体を、誤りと看做す事はできない。その成長の鍵を握るのは、労働者の質(差異の尊重による創造力)なのである。終身雇用制度があった時代では、労働者には、自発的な高い忠誠心があり、安心して創造力を発揮できたが、今では保身・自身の生活を守ると言う、政府が国民に要求する自己責任に忙しいのである。歴史的に見ても、鎌倉時代の武士の「御恩と奉公」があった。武士は主君を選べ、主君に石高等で不満があれば、暇をとった。故に、主君は武将や武士への評価及び待遇に細心の注意を払ったし、それは、ある意味、対等な契約関係であった。そして仕えていた時の業績は、随時、書状にしたたらめられており、それが職務経歴書の役割を果たし、年齢差別なく別の主君に仕える事ができた。今よりも、戦国時代の方が公平である。庶民層においても、戦国武将が城内に町人や農民を匿い、敵より守った。領海内で発生した、日本漁船に対する韓国国家権力の不当行為である玄界灘事件や北方領土周辺における銃撃事件に対しても、日本政府は、自国民を保護を怠っている。海外滞在者が、日本大使館を信用しないのは常識となってしまった。つまり、戦国武将よりも日本政府は国民を大切にしない一面が存在するのである。無条件に忠誠や愛国を誓うという性質ではなく、日本的な契約社会であった事を理解しなければならない。
労働の質が齎すイノベーション、つまり、技術革新は、多種多様の個性の中から誕生する。つまり、差異同士が触発され、共振し、多くのノイズの中から秀逸な技術革新を生み出す、本来の多神教文明に基づく日本の伝統的思想(参照 日本の伝統的思想について)の重要性が増すのである。言論の自由は勿論、精神の自由(参照 自由について−東洋と西洋)、同一性主義教育の否定(参照 教育理念問題を考える)が必要不可欠になるのです。安倍政権の教育基本法改正では、「愛する態度を養う」という個性(多種多様な愛国心)の発露でさえ画一化する意図が見られ、政策に矛盾が生じ、100年先の日本社会に不安を残すものである。
更に、昨今の日本では、柳沢厚生労働大臣の「産む機械説(参照 「子産む機械」発言の深刻な影響−問題の本質)」「子供二人は健全説(参照 柳沢厚労相「健全発言」と日本の病的問題)」「労働時間だけが売り物説」だけではなく、自民党・高知市議の島崎利幸氏の「機械のさびきった、子供の産めないおばさん連中」発言(参照 三輪のレッドアラート!無神経の極み・・・)をし、それを「悪いことを言ったとは思ってない。あと4年間、言いたい放題言わせてほしい」(言論の自由とは何を言っても良いと勘違いしている愚民の典型である)という荒廃ぶりである。つまり、安倍政権や経済団体は、労働者を唯物論的に「使い捨ての道具」として非人道的に扱い(参照 民間議員、御手洗キャノンの偽装請負で参考人招致要求)、労働者も感情を持っている人間であり、その尊厳を重んじるべきである、という基本的人権の原則を忘却しているのである。然るに、野党は当該問題でさえ追及しきれていない、この事実が良識ある国民を絶望の淵に追い込むのである(参照 安倍政権の迷走−茶番国会)。
また、一部の右派が煽った「イラク人質事件の自己責任論」でさえも、マスコミや政府までがてんやわんやしつつ同調したのである。これは、右派と左派による政治闘争の大前提があり、イラク人質事件の本質は、被害者の意図は不明(推測の域を出ていない)であるが、被害者周辺が政治利用「イラク撤退論」をしている、と看做せた事だ。これらは特殊なケースで、個々のケースとして語られるべきだが、一般論としてネットやマスコミ、政府で語られた。第一の問題点に、政府が危険だと認識し、そこに渡航禁止の法規制を設ける事は憲法違反の疑いがあった。つまり、政府の助言にすぎないのである。危険を承知してイラクに行き、そこでトラブルに巻き込まれれば結果の責任(誘拐や犯罪にあった件)と「日本政府が同胞を救出・保護する義務がある」を、明らかに混同していた。
何れにせよ、このような日本の異常性、日本の幼稚な民主主義の実態が、世界中に隈なく報道された事によって、特に、イラク人質事件のバッシングでは、「イラク戦争の当事者」であるアメリカ政府関係者や欧米のメディアからさえ、日本の異常性、非人道性、非人権主義国家性を指摘、批判されました。柳沢発言(参照 ツァラトゥストラはこう言っている?:政治家の言葉と「言葉狩り」)では、公的な場で日本の女性に対する優越権が認められる、このような封建的風土の残る日本のイメージが、「イメージではなく真実である」ことを宣伝し、日本は世界中で嘲笑の的になっているのである。
つまり、GHQ総司令官マッカーサーが、民主主義の成熟度について、米国を40代、日本を12歳と表現し、民主主義の発展を期待したようだが、戦戦前戦後の時代から進歩していない、と看做せる。
そして、これらを激しく批判しない国民に付け込み、政治倫理が溶解しきった安倍政権は、「話し合うという国民の内心の自由を侵害する」共謀罪(参照 安倍が共謀罪成立に執念を燃やす理由を探る)を導入しようとしている。マスメディアや一般国民が、恐ろしいほど無関心でいられる、盲目的に政治権力を信用し、暴政の脅威に対して無防備である、つまり、平和ボケ(軍事に関する平和ボケ以外が認識されないところに「真の平和ボケ」がある)なのである。
これらに共通している病巣は何であろうか、日本人が、民主主義社会における「基本的人権」や「公共」への意識の欠如、又は無理解である。つまり、日本国憲法の政治権力への授権規範性の意義を、国民が十分に理解していない、と考えられるのである。戦後教育の問題は、封建的風土が色濃く残る日本社会で、真の民主主義に路線変更を仕切れず、戦前をひきずったまま、表層のみ且つ唯物論による近代主義の理解によって、近代主義の負の部分のみを社会に顕在化させたことにある。その典型が「平等」の概念であり、平等と言えば即「結果の平等」を想像し、その観点から保守層は批判し「機会の平等」に触れれども、「機会の平等」に基づく意見は極めて少ないのである。それは、恵まれない社会または家庭環境下に生まれた人々に対し、社会で働くために必要な知識や技能を効果的に提供し、自立を促すことである。労働環境における、正規雇用と他の雇用形態の差別等、文化的自立した生活を出来ないワーキングプアー問題がこれにリンクされる。安倍首相は、食事もとれない絶対貧困率は低い、と主張したが、「文化的な生活」は現行憲法で保障されているのである。安倍首相は、憲法の精神遵守の意思がない、まさに悪霊にとりつかれたカルトチックな政権である。
つまり、日本国憲法の授権規範性が侵害されれば、政治権力は、欲望の赴くままに暴政化、腐敗し、単なる暴力装置となり、有害そのものであり、国家滅亡路線であり、危険国家と看做され孤立化路線の確定であり、その先にあるのはいつか来た滅びの美学の道、自暴自棄、破滅希望、自爆、(日米戦必敗のレポートが政府系研究所によって提出されていた。国民は「無敵皇軍」「神州不滅」を連呼していた。)であり、結果的には、善良な国民の主権が侵害され生活が破壊されるのである。国民は、自分の事と自覚して、政治を学んでいない、知識のみは豊富になっても本当に理解は出来ていないのである。これが、無関心である。はっきり言えば、関心があるつもりになっている人も少なからず居るのです。
四季桜がベルリンの壁崩壊直後の欧州で体験したことで実感した。障害者への配慮」という点であった。欧州には、障害者のみで運営されているレストランやカフェがあり、そこに四季桜はどういう場所であると知らずに、ドイツ系スイス人女性と食事に行った。そして、不用意に「遅いね」と言ってしまったが、同伴の女性は、不快感を表に出して、メニューにある同店の説明書きを突きつけたのであった。同女性は、四季桜の障害者に対する思いやりのなさ、無配慮であると感じたのであった。しかし、そういうお店と知らなかった事、更には、日本にそういうお店がないという事、これらの話で誤解を解けたのであった。しかし、日本の社会を「残念である」と述べていた。つまり、障害者への無関心、障害者への無配慮、障害者への人権軽視、このような感覚を自己に内在していると体感(経験しないと分からない、自己の事として知らないと分からないもの)で学んだのである。故に、障害者自立支援法という欺瞞に満ちた法律には呆れてしまうのである。機会平等の概念の欠如なのである、弱者を機械平等に扱えないという発想が、実は、差別であるという意識の欠落である。弱肉強食や優勝劣敗の思想であり、これは仏教の教えにも反し、このような思想を重んじるの者の為に地獄がある。まさに、今の日本は、安倍首相とその支持者の手によって、地獄に叩き落とされようとしているのである。
匿名掲示板系の運動を眺めていると理解出来るが、行動を起こしている者は、不毛なウヨサヨ論争の発展系としての運動にもかかわらず、第三者や社会に評価を期待している側面が見受けられ、つまり、自己と距離をおいて社会の問題(社会の一員、共生しているという認識不足)として捉えている。政権側に、記者クラブ等を介して巧みにコントロールをされているメディアの情報によって、踊らされている若年層や中産層は、結論ありきのネット上のウヨサヨ重箱の墨突っつき大会が精一杯なのでしょう。しかし、自己認識不足故に、自己への過大評価や驕りになって自壊し、左派系の陰謀論、工作説とし、自己正当化に躍起となる。拉致被害者救出運動他も似た側面がある。フランスの若年層は政権は生き物であり、腐り易いものである、と認識しているからこそ、彼のデモのように、問題と一体化したリアリズムが生まれるのである。リアリズムに徹した、自己の問題と捉えられる、名誉や自己顕示欲目的ではない、お金のためでもない、行動力のある「批判勢力」を育てることが重要なのです。若しくは、更に進んで、自身で社会に貢献して解決する勢力、つまり、共同体(防犯グループもその一つ)である。この共同体の破壊を意図している政策が、共謀罪(参照 安倍が共謀罪成立に執念を燃やす理由を探る)であると考えられる。
この種の問題を抱えている日本では、政治権力の暴走が容易である。そして、民主主義が崩壊し、地上の楽園としての独裁国家、共産主義国家、全体主義国家に変質しても、国民はそれほど違和感を感じないであろう。主権者たる国民の「基本的人権」にさえ無頓着である、それでは、国家統治を自己の問題としてリアリズムで認識するのは不可能である。国民は、親方日の丸官僚制度の下で、暴政や悪政であっても、経済が安定し成長していれば満足なのである。
故に、天文学的な年金保険料積立金の不正流用問題と巨額の貸し倒れ金疑惑の顛末、巨額の機密費不正使用疑惑の顛末、石井議員の惨殺事件の顛末、ロッキード事件時の対潜哨戒機疑惑の顛末・・・数多くの政治と金(又は闇社会)の問題等の追求は、最重要部分は有耶無耶になり、忘却されてしまうのが現代の日本政治です。これは、与野党の迎合、馴れ合いであり、ある意味大勢翼賛政治とも言え、それに第三の権力から利益至上主義に傾倒した権力の番犬に成り果てた(参照 メディア腐敗−政権癒着)、と看做せるマスメディアも恐ろしいほど無関心です。
ここまで無関心である理由は、明治維新以降に日本に導入された「啓蒙思想」が、日本では表層のみを理解され全く根付いていない、中江兆民の言う「恩寵の民権」であって「快復の民権」ではないことに、一つの要因を見出せる。もう一つ、日本的要因を挙げられる。それは、奈良時代以降の伝統思想「神仏習合」から誕生した「仏式葬式」や「神道の御祓い、魔除け」等の、日常生活慣習、風土、文化に根ざしているものです。
親鸞聖人の浄土真宗の教えですが、念仏によって不安の払拭をし、安心を得た時の心の歓喜強調する。そして、極楽浄土できるという、他力本願思想の側面が見える。また、位階構造を担う社寺等を中心とする民衆の相互扶助共同体「講」の存在、つまり、神仏の前では日本人は平等という精神文化(連帯意識、仲間意識)が育まれたのです。代表的な例として、江戸時代の初期に発生した、富士山信仰を基礎とする「富士講」があるが、その教義は「一家繁盛」「病苦退散」「天下泰平」という封建時代の生活に直接結びついているものである。主権在民の民主主義社会ではないので、政治に対する「批判精神」、「監視する風土」が存在しないのも当然です。また、「御上」という言葉もありますが、「上」は「神」の語源であるという学説もあります。それを考えると、政府批判と無縁の風土、精神文化が日本人を支配している、と理解できるでしょう。明治にしても、天皇主権であり、例え、天皇の意に反していても、天皇の権威を利用されれば、如何なる、抵抗もできなかった。これは、旧陸軍内部における矛盾となり、階級を超えた別の力として作用したのである。江戸時代であっても知識層は、政治と生活の関連性に気がついていたが、保身目的又は民衆の世界とかけ離れた世界の住人であったことからか、民衆の目を政治に向けることはしなかったのです。しかし、例外的に、生活が困窮し、死活問題になると「農民一揆」が発生した、つまり、暴政に対する批判、予防的批判という習慣はないのです。
明治維新を経て、「科学的であれ」「文明開化」「欧化主義」の下で、明治政権の狂気的神仏分離、神社の統廃合に伴う「非科学的な氏子崇拝」から「科学的な皇祖神崇拝(神話に基づいた国学を科学的とした)」へと意味不明な科学論による、信仰のすり替えが行われた。それまで、相互扶助共同体の中心であった氏子制度の破壊が行われたが、このような民衆意識(講の教義)の傾向は、所謂「新興宗教」の中に残り続けました。この民衆意識による精神支配こそが、政治権力者の性善説を前提にした、現代の「親方日の丸意識(=お上)」である。これは、民主主義社会では、日本人の官への甘えの意識であり、逆に甘えていると言われている人々、つまり抗議をしている人々が権利を守るために戦っている。日本の民衆思想において、霊性的な「自由(参照 自由について−東洋と西洋)」「平等」「博愛」は、近代啓蒙思想の説く「自由」「平等」「博愛」とは完全に異質です。
日本の民衆思想である「相互扶助による弱者への労わり(慈悲)」「癒し」「平等観」は、明治維新を発端にして崩壊が進み、グローバリズムと市場原理至上主義という政治、社会環境の中で、小泉劇場が幕を開け、「自民党を壊す」のスローガンの下に、自民党の地方組織と保守共同体だけではなく、日本そのものを壊してしまったのです。まさに、サッチャー元英首相の「社会などというものは存在しない」の破壊的、反保守的論理になっているのです。そして、そこに残ったのは、経済至上主義や物質至上主義という利益追求をする近代利己主義の意識のみが残ったのです。それが、時代の寵児と持て囃されたホリエモンであろう。
そして、現代の知識人やマスコミ人の多くは、江戸時代以前の知識人同様に、庶民とはかけ離れた世界に住み、下界に住む一般国民を見下しているのです。故に、彼らにとっての一般国民の存在は、「産む機械」であったり、単なる「使い捨ての道具」としての労働力でしかないのです。
ここまで見てくると、今の日本の精神的病巣の元凶が見えてくると思います。つまり、日本人の精神基盤にあるのは「封建社会の精神文化」であるが、明治以降の近代化によって「良き部分」が破壊されている。残骸としての閉鎖的「馴れ合い」(身内贔屓、安倍政権内でも露骨、官僚や企業でもある)は残っている。それに代わって、導入された近代啓蒙思想の精神は表層のみの理解で、自己の事として会得出来ておらず、実践できていない。つまり、日本国民は、明治以降の欧化主義、西洋主義で日本人としての精神文化を喪失し(潜在意識には残っている)、近代啓蒙思想も得ていない無思想な状態(参照 戦後保守思想(政治家)を考える)にあり(幕末で欧米人が予想していた)、それが欧米諸国を襲った近代主義の狂気に輪をかけて悪化させているのである。夏目漱石の文明論で予言したように、亡国の方向へ進んでいる。次に、明治維新を期にして多神教文明から一神教文明への人為的移行に伴った弊害、明治人の視野が狭かったのである。その要因は、批判を恐れずに、主観で述べるならば、本居宣長等の国学の問題点に突き当たり、漢学に批判的な立場であるべき国学が、漢学の二項論によって解釈されているという矛盾があるのではないか、という疑問に四季桜は辿りついている。
何をするべきか、先ずは、歴史の検証である。民主主義の本質を理解するには、「フランス革命の意義」を当時の時代背景や思想、哲学を含め幅広く自己の問題として検証することである。政教分離ならルターの「宗教革命の意義」を知るべきである。この世にはあ、過去と未来しか存在せず、過去の積み重ねが歴史であり、歴史にこそ英知が詰まっている、そこからしか人間は学べないのである。それは、ミルの自由論を和訳した「自由之理」の精神をそれだけで理解するのは困難であり、それが明治の自由民権(民権即国権)運動の軽薄さである。「自由之理」という書籍の背景には、観念の不連続性が、メディアによって現象界で連続して起きた歴史の積み重ねの産物であり、これらの背景を理解することなくして、「自由之理」を理解する事は不可能なのである。歴史検証の浅さ(当時としては限界かもしれないが、夏目漱石は認識していた)が問題にある。
ネットで跋扈する、日本の結論ありきの右派自慰史観や左派自虐史観に如何なる意義も見出せず、ある種のネット議論ゲーム(ディベート大会)を楽しんでいるにすぎない、つまり、不毛なのです。歴史を直視する事によってのみ、日本の危機的・末期的現状の認識や日本の真の文化を知る事が出来る。その時、自己がどれだけ日本の文化、風土に影響を受けているか認識でき、それが自己教育、自己認識につながるのである。
本来、日本は自然共生の八百万の神々の国である。伝統的に渡来人による「多民族」「多文化」「多神教」国(参照 日本文化の源流を考える)である。明治の先人が開拓した国民国家の枠組みが、日本民族の卓越した器量や寛容な精神にとって、視野狭窄であり、狭過ぎた可能性を考慮するべきである。自然共生の精神、伝統的東洋の価値観によるアジア主義、イデアとしてのみ存在したアジア主義の具現化、大東亜共栄圏の失敗の真の理由(資源、ロジスティック、技術、物量、システム工学等と言う表層ではない)の探求こそが必要ではないだろうか。

▼【CPE法案】初期雇用契約。フランスで、26歳未満の者を雇用するにあたって、2年未満ならば理由を明示することなく自由に解雇することができるという制度。いわば、新卒採用のフランス人の大半を非正規雇用者化する法案である。2006年3月半ばから、フランス国内では多くの大学、高校が学生達によって占拠、閉鎖、さらに公共交通機関や私企業を含めた300万人規模のストライキが起きた。
▼鹿児島選挙違反の捜査、再調査必要と国家公安委員長
鹿児島県議選を巡る選挙違反事件で、強圧的な取り調べがあったなどとして、12人の被告全員が無罪となった鹿児島地裁判決を受け、溝手国家公安委員長は27日の閣議後記者会見で、当時の捜査について「もう一度調査し、整理しなければいけないと思う」と述べた。
また、当時の捜査幹部の処分については「我々としては具体的に指導はできないが、適正に対処するように伝えないといけない」と話した。
(2007年2月27日14時14分 読売新聞)
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